teacher04金子 謹吾 先生
FOR YOU TALK | INTERVIEW 04勉強にも仕事にもこうと決めたら、とことん突き詰めて欲しい
金子 謹吾 先生
1987年3月の邦友会誌 Vol.8に掲載された「FOR YOU TALK」記事より和丘祭も終わり、校内も秋の落ち着きをみせてくれる日曜日。第4回FOR YOU TALK、ゲストの金子先生をお迎えしていろいろお話を伺いました。
Qプロフィールを教えてください
昭和4年3月26日生まれ、埼玉県出身。
日体大を昭和24年に卒業して、東京の明治学園の高等学校で教員をしながらそのかたわら、明治大学の政治経済学部で勉強していたんだが、当時生活が荒れていてね。同じ教員の旧友とこのままではいけない。一度都落ちして2、3年経ったら、また東京に戻ろうと自己粛清という意味で都落ちしたのが昭和29年。旧友は岡山へ行って予定通り3年で東京に戻って、今は国士舘大学の教授をしている。私は名古屋が住み心地よくなってしまって、そのまま腰を落ち着けてしまいました。
今は名東区の名東警察署の近くに住んでいらっしゃる先生。どうやら名古屋という土地が肌に合っていたみたいですね。
Q学生時代では?
日体大での学生時代は荒れていました。食うに食無し、着るに衣類無し、住むに家無しと、厳しい時代だったんです。
その頃東京にあった日体大が、戦災で焼けてしまったものだから、茨城県へ疎開してそこで3年間寮生活をしたんだが、寮の食事ときたら配給でイモの中にご飯が少し入っているといった状態。量も少なく実家から米など送ってもらい自炊をし、空腹を補っていました。あの頃は僕だけじゃなく、周りのみんなも苦しい生活でそういう時代だったんだよ。そういう苦しい生活の中でもスポーツや運動が好きだったから、ラグビー・陸上と何でもやったよ。中でも柔道が好きでした。小さいながらもかなりの自信があったね。ちなみに三段です。
実際にその時代を生きてきた先生にとってスポーツは、毎日生活していく上での心の支えだったのではないでしょうか。
Q家族のこと
家内とは恋愛ではなく、見合いだったんだよ。お酒を飲むと豪快に遊んで女友達もたくさんいるといった状態を見て妹が、いつまでも遊んでいちゃだめだからと、こういう人がいるからお見合いしてみないかと勧められた見合いの相手が家内で、当時私が31才でした。子どもは娘が3人です。一番上は25才です。まだ、結婚をしていませんから心配ですね。きっとあなたのご両親も同じだと思いますが、自分の娘が一生一人でいるなんて考えられませんし、またあっちゃいかんと思っています。娘にそれを言うと怒るよ。でも電撃的に結婚するかも?しれないから、親としてそれを期待しています。
私の親と同じ事をおっしゃる先生。どこの親も考える事は同じのようです。
Q最後に在学生・卒業生に何か一言お願いします
そうだなぁ、何事にも根性を持ってやって欲しいなぁ。勉強にも仕事にもこうと決めたら、とことん突き詰めて欲しいですね。
戦後苦しい時代を乗り越えられ、またスポーツで培われた精神が強く、かつご自身に厳しい先生らしいお言葉でした。
取材を終えて
東邦に教員として、東邦高校時代を入れると32年になり、学校経営の厳しい年が近づきつつある状況をどう乗り越えるかという課題に今取り組んでいるとのこと。持ち前のバイタリティーでがんばって欲しいですね。先生お忙しい中、貴重な時間をさいていただきましてありがとうございました。